秋田こまっち。

思ったことメモ 思い10〜思い12

思い10.ひきこもり

 このフラッシュで思わず泣きそうになりました。(関連リンクフェリスのお部屋♪

 私は「ひきこもり」とはおおよそ無縁ですが、すごく引きつけられる内容がありました。

手を伸ばしさえすれば何でも手に入るって
今はただ本気を出していないだけで、本気をだせばいつでもすぐに自分なんてものは簡単に変われるはずだって
でも現実にはめんどくさいし明日から変わればいいやと思ってた

 私は学生なので、今も親にお金を出してもらって生活しています。お金はやっぱりどうしても必要です。お米を送ってもらっていますが、切り詰めても食費だけで10000円は超えてしまいます。家賃も必要ですし、電気、ガス、水道などのライフラインも欠かせません。バイトもしているのですが、そのためツールとしての携帯電話も欠かせません。高校生の頃まではこんなこと何一つ分かりませんでしたし、親も何一つ口にしませんでした。

 ある運送業者でバイトをしていたことがあるのですが、朝から定時まで一生懸命働いて7000円です。サービス残業が当然のようにある中、残業にはしっかりと手当てが出るのでいい会社とも言えるかもしれません。この金額を安いとみるか高いとみるかは、本人の金銭感覚しだいです。

 7000円が丸々手に入るのですが、私はそうは思わないようにしています。月末になると、家賃、光熱費、携帯電話、ネットなどの料金が通帳から引かれます。引かれはしますが、バイト代と奨学金も入っていて何とかキープしています。その差し引きで残った分だけを自由に使うようにしています。親には普段は学費だけ出してもらっています。それが今の自分にできる精一杯の親孝行だと思うからです。

 小さいころは「○○欲しい〜!」「○○行きたい〜!」なんて、親によく無理を言っていました。「何バガなごど言ってらっけな」(標準語訳は「何バカなこと言ってるの」)なんて言われるのが当然のことながらほとんどでした。親が子どもに対しお金を使うのは当然のように感じていました。「何で買ってくれないんだ」という筋違いの考えで親を憎んだことさえあります。ただ、今となっては親の気持ちが分かります。お金も時間もなかなか無いんですよね。本当は買ってあげたいし、一緒にどこかに行ってあげたいはず。ただ物理的に無理があったんですよ。

 私は奨学金をもらっているのですが、その申請をする際に両親の給料を書かなくてはならないのです。その時に初めて親の給料をみせてもらいましたが、少なくてびっくり(笑) 奨学金の申請も余裕で通りました。何か買ってあげたいのですが、買ってあげられないという親の気持ちが痛いほど分かりましたし、と同時に色々要求していた自分が情けなくなりました。

 同じ年で働いている友人もいますが、給料は一ヶ月手取りで十数万円くらいだそうです。秋田で親と同居しているからいいのですが、もし一人暮らしをしていたら……。手元に残るのは本当に少ないでしょうね。ロート製薬に勤めている友人は一ヶ月手取りで二十数万だそうです。ただし住んでいるところが首都圏なので、家賃なども半端じゃないでしょう。使えるお金はいくらなのでしょう……。

 そんな毎日を過ごす中、光を失ってはいけないと思うのです。「手を伸ばしさえすれば何でも手に入るって」と思っていた自分は確かにいたのです。実現することは難しいことですがそのことは間違った考えとは言えませんし、皆そう思っています。「手を伸ばしさえすれば何でも手に入るって」と思いながらも、誰もが壁にぶち当たります。そこで絶望した後にはにどうすればいいのでしょうか。「ひきこもり」とそうでない人の違いは、その後に取った行動の違いだけです。

 今現在、日本に「ひきこもり」が100万人いるとも言われています。

 04.09.21

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思い11.高級ジャムパン

 高級ジャムパン  高級スプーン  高級アイスクリーム

 この画像から思い出されるのは、「味噌汁熱くてうまいよ〜」と自分の作った味噌汁をアピールしていたおばちゃんの図々しさです。私の祖母も「うめうぢに、け」(標準語訳は「おいしいうちに、食べろ」)と言っていました。「熱い」=「うまい」は必ずしも結びつかないと思います。ですが、さすがに「味噌汁冷めない状態と比べてうまいよ〜」とは言えませんね。

 自薦したいときには客観的に褒めることが効果的です。といいますか、客観的な言葉以外は全てマイナス効果になる可能性もあります。「高級」というフレーズは客観性に乏しいので、私は「は?」という印象を受けました。「ジャムパンに『高級』は無いだろ…」と思っていたら、あるファミレスで「高級コショウ」を発見。「コショウに『高級』って…」と思っていたら、「高級スプーン」を発見。もう頭の中は何でもござれ状態です。

 なぜ「高級」という言葉でなくてはならなかったのでしょうか。あの味噌汁のおばちゃんの話がこのことをうまく説明してくれそうです。若い世代(といいますか私)には違和感がある言葉だったにもかかわらず、少なくともあのおばちゃんには違和感の無い言葉だったのではないでしょうか。

 私は「古着加工」された服を着ていて「みだぐない」(標準語訳は「だらしが無い」)と言われたことがあります。そして逆に私はおばちゃんたちの「奇抜で華美」な服を見て、なんだあれはと思うのです。そう、感覚の違いです。

 そして時代の変化に取り残されたどうでもいい商品名として今に至った、と言えるでしょう。スプーンが高級だろうが、ジャムパンが高級だろうが商売という点では影響が無さそうです。

 ですが、高級ジャムパンはやはり只者では無かったのでした。どこか突き抜けちゃっていました。

 「『高級ジャムパン』をパクリと食べると、必ずジャムにヒットする」という物凄い事実に気付きました。普通のジャムパンだと、一口食べてジャムに必ずヒットするということはまずありません。そうあるためにはジャムがたっぷりと入っていて、なおかつ偏らずに入っている必要があります。

 それを踏まえた上での「高級」というフレーズだったのなら、名付け親までも只者とは思われません。そしてジャムパンが大好きで毎日のようにジャムパンを食べている人、ジャムパンから様々なことを引き出せる人でなければ付けられない名前ですよ。そしてジャムとのヒット率の高さとセレブなイメージをリンクさせるという偉業。いい仕事してますね。

 高級ジャムパンは確かに高級でした。「ジャムパンを一口食べた際ののジャムとのヒット率向上」に努めたその功績に日本の片隅からささやかな拍手を送り、敬意を表したいものです。

 でも実は安いジャムパンの方が好きだったりします。ジャムが無い部分があっさりしていていいんです。ジャム部分ばっかり食べていると口の中が変になってしまいます。ジャムが少なくても、ジャムが寄っていても、一個のパンながらお口直しができるのだと思えば問題ありません。

 一口でジャムにヒットしないところがまたいいですね。本当にいじらしいです。二度も三度もパクついてもジャムが見えてこないときには「君とまだ巡り合えないのか(笑)」とつぶやきたくなったりするとか、しないとか。まるで誰かの人生の様(笑)

 04.10.19

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思い12.傷口に包帯を巻こう

 昨年のことなのですが、不定期に携帯で日記を書いていました。ログ消失が怖い、他人に読まれるのが嫌、携帯で文字を打つのが面倒だった、などと色々な理由で現在は止めてしまいました。ただ今はこのサイトがありますし、そうなって大変満足しています。日常の出来事からプライバシーにかかわる部分や不必要な部分が排除されて、まさにその時点における思いだけが反映されるという形に昇華されているように思えていますし。

 昨日、とある友人に「精神状態が……」なんてメールを送った前後に過去の日記を読み返していました。気持ちが晴れないときは、気持ちのベクトルを外に向けるようにするのが基本ですが、このように逆向きのベクトルもまた一興です。もの凄く短いスパンにおいても、実に様々な心の動きがあったもので、今の私の心はそれに伴いぐるぐると揺り動かされます。

 日記の面白さは書くことそれ自体でなく、本当は読み返すことにあると思うのです。「○○に行った」「○○と思った」だけでもいいのです。その一行は自分にとって、天使の一行になるはず。自分の文章ほど行間が読めるのは当然で、一行だけだと行間すらないのですが、頑張って行間を読むとびしびしきます(笑)

 03.08.13 バイトって何なのか分かりかけているこの頃です。
 03.08.14 見ていいときと悪いときがあるんじゃない?

 今の私にとってはこの2日間の行間だけでもうお腹一杯です。頭がすうっとしてきます。そして読んだあとにはまた新しい何かが生まれ、それが記録され、そしてそれがまた読み返され……と延々と続きます。

 そうでなくとも、何かを思い、明日に続けていくことが「生きている」ことだと思うのです。そうでない人は「生きてはいない」のです。「死んでいないだけ」なのです。前から親しい友人にはこの持論をお話してきました。ただ憶えて貰っているのかは全く分かりませんが(笑)

 なぜこんなことを書こうと思ったのかというと、「03.08.14 見ていいときと悪いときがあるんじゃない?」と同じような経験を昨晩にしたからです。そのために時間差でマイナス思考モードの私になり、変な感じになってきたからです。

 深夜に一人で悲しげな、そしてなんだか憂慮の面持ちになっていました。その私をキョロキョロと見るのです。で、目線が合うと逸らすのです。そこで私は「一体何がしたいんだ〜、何を思っているんだ〜」とステップアップ(ステップダウン?)し、憂患モードに突入します。こうなると図らずとも負の連鎖、負のスパイラルに陥ってしまいます。そう図る人など普通いるはずもありませんけどね。

 「続・氷点」からの引用ですが、「包帯を巻いてあげられないのなら、むやみに人の傷にふれてはならない」というフレーズがあります。キョロキョロ見ているだけでは何にも解決しません。何かお話してくださいな。そして私の話を聞いてくださいな。というか聞け!(笑) そう思いました。このままじゃあ生殺しですよ。

 確かに私とあなたは路線も方向も違うことでしょう。変わり者の私には凄く話しかけにくいでしょう。傍に来て話すほどの相手でもないのでしょう。私も完全に自分のせいですからぐうの音も出ないのですが、自分自身を変わり者と思ってしまっているので話しかけていいのか迷ってしまうのです。ただ同じコトを一緒に頑張っているじゃないですか、ね?そこだけは同意してもらいたいです。

 「変わり者?」と聞くと、「うん!」と威勢良く答えられるということはいい傾向だと信じていますが、ちょっと考え直さないといけないのかもしれません。その流れからは「変わり者だけど、それはそれとして認める」という雰囲気が伝わるのですが、果たしてそうなのでしょうか。

 変わり者はやっぱり変わり者なのです。変わり者はそのままでは意見を求められることも無いのです。そういう役割期待をされてはいないから。まあ我慢しておきましょう。

 自分は自分の心、そして相手の心をとてもよく思っていると自負しています。こんな些細なことを文章にして反省し、今後とるべき態度・方針を見出している人などそうはいないでしょう。ただ、逆走ということもありますし、行動に現れるかは分かりませんけど。

 包帯を巻くのは他人なのか…といえば決してそうではありません。では自分なのか…といってもそうではありません。一人静かにしている時間が欲しいのです。命に別状が無ければ傷口は残るにせよ、だまっているだけでどんな怪我でも自ずから治るのです。そしてそれは「生きている」からなのです。

 私と積極的にコンタクトを取ろうとする数少ない人は、きっと私の何かに魅力を感じ、そして期待しているのでしょう。こんな私を受け入れてくれる人には、期待以上のコトを絶対にしてあげたいのです。笑い?大いに結構です。相談?大いに結構です。

 人気者になりたくはありません。変わり者でも一向に構いません。
 上の人になりたくはありません。底辺の人でも一向に構いません。
 ただ傷口に包帯を巻ける人間になりたいです。絶対に。絶対に。

 一年以上の時を超えてあの思いを再確認しました。これが日記の力なのだよ、明智クン。

 04.11.01

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