秋田こまっち。

思ったことメモ 思い13〜15

思い13.葬式

 こんなヤツの葬式に来てもらって大変ありがたいです。ちょっと変わったヤツなんで、どれくらい来てもらえるのかと不安で一杯でしたが、大変ありがたいです。まあ、お集りの皆さんはこいつのことはよくご存知でこの場にいらっしゃるのでしょうが、簡単に私とヤツの出会いを紹介させていただきます。

 ヤツに初めて会ったのが大学一年のゴールデンウィーク明けごろでした。実験棟の陰の方に木がぽつぽつと生えているところがありました。緑が綺麗だなって思ってました。緑が好きなんです、はい。そこで講義の合間にタバコを嗜むのが日課でした。18のくせして大人ぶってました、はい。

 そこでいつものようにタバコに火をつけようとして、ポケットから100円ライターを取り出そうとするもありません。忘れ癖があるもので、デイパックに予備を数個入れてあるのですが、それもありません。どうしようかと考える間もないうち、ヤツが無言で「すっ」と火を差し出してくれました。何か察したのでしょう。私は「どうも」と言い、隣り合って吸いました。それが出会いです。

 思えば同じ場所でヤツをたまに見ていたような気がします。それ以降も何度か一緒になりましたが、特に何も話すことなく、隣り合って吸っているだけでした。

 で、思い切って話しかけてみることにしました。ヤツをいつも眺めていますが、顔も服もごくごくプレーンで、なかなか話すネタなんて思い浮かばないものです。仕方ないので「タバコ好きですか?」って聞いたんです。私、アホですよね。いつも同じ場所で吸ってるってことは好きに決まってるじゃないですか。

 そしたらヤツはなんて答えたと思いますか。「分からない」って言ったんですよ。私は思わず苦笑いしちゃいましたよ。そしてこれはこの時じゃなくて後から聞いたんですが、「タバコを吸うのは目的じゃなくて、手段なんだ」なんても言っていました。タバコを好きかは分からない、けどタバコに対しては特別な思い入れがある、そんなヤツなんです。

 ヤツと私とタバコ、常にこの三つが欠けることなく揃っていました。ヤツも私もべらべらしゃべるタイプじゃありません。無口と断言してもいいくらいです。

 ただ、ヤツが隣にいる時は心地よかった。何ていうんでしょう。ウマがあうのかもしれません。この広い宇宙、この広い地球、このたくさんの人がいる大学、その片隅で出会って隣り合ってタバコを吸いながらぽつりぽつりと話す。不思議でした。ヤツほど心地いいのは初めてでした。

 私と話している時、ヤツは何かを考えているようでした。目を細めたり、物憂げな表情をしたり、動きはわずかながらもその表情の変化は豊かでした。何を考えていたのかは分かりませんし、ヤツに聞いたこともありませんがそれでよかったんです。何となく分かります。いや、考えていることが分かるというのではなく、そのスタンスがよく分かるということです。私も頭に思い浮かぶ世界、自分が経験した世界、他人に話したいと思う部分はごくごく僅かです。向こうもそんな諸々を全て分かっていたと信じています。

 いつもの場所の緑が赤や黄色に変わった頃、ヤツはぱったりと来なくなりました。ピンときました。何かあったんだって。でもどうしようもありませんでした。ヤツの携帯の番号を知りませんでした。いや、携帯を持っているかどうかすら知りませんでした。その程度の関係でした。いや、私ってやっぱりアホですよね。

 でもヤツのいないその場所に三日といることができませんでした。私は街に出てヤツを探し始めました。病院という病院を当たりました。携帯の番号は知らなくとも、運良く名前くらいは覚えていたもので。一週間くらいでなんとかヤツを見つけました。入院していました。六人の相部屋の左奥、窓側に寝ていました。

 ヤツはにっこりして「よっ」とだけ言いました。右腕を挙げて「よっ」と返しました。顔を見て安心しました。元気そうだったんで。タバコも吸ってましたし。

 ちょっと話して帰ろうとしてナースステーションの前を通った時におばちゃんのような看護婦さんに呼び止められました。「キミさ、あの人の知り合いなの?ご家族?」と言われました。その人から聞いたのですが、ヤツは「家族はいない」と言っていたそうです。これは後でヤツに聞いたんですが、ヤツがどうやって大学に行っているのかというと、両親の保険金だそうです。何にも知りませんでした。帰り際に買ったコーヒーがあんなに味がしないのは初めてでした。何と言ったらいいか分かりませんが、忘れられません。

 それでもヤツはタバコを吸っていました。この吸い方が見事でした。一本をたったの四分の一いかないくらいしか吸わないんですよ。だから灰皿に吸殻が増えるわりには灰が少なくて。また、吸殻を潰さないでぽんぽんと乗っけていくんです。花びらのようでした。入院してから灰皿でタバコを吸うのを見るようになったんですが、もっと早く見ておくべきだと思ったくらいです。とにかく凄い。独特。

 そうこうしているうちにあっという間にやつれて、あっという間に死にました。病名は聞きましたが覚えられませんでした。何だかカタカナでとても長い病名で、聞いたこともない病名で、そしてすごく語呂が悪い。語呂が悪いのは覚えられなかったからです。ヤツには相応しい最後だと思いました。

 そして処置室で死んだのですが、最後に「ありがとう」と言っていたそうです。誰にいったのやら。本当にヤツらしい。

 実験棟の陰のいつもの場所が雪で覆われた頃、わたしはまたそこに戻ることになりました。そしてタバコを取り出したらライターが無いんです。デイパックに手を伸ばそうとしたら涙が止まらなくなったんです。何で涙が今さら出たのかさっぱり分かりませんでした。デイパックの中にはあの時とは違ってライターが入っていたのかもしれません。でもタバコを吸うのを止め、ただ泣きました。デイパックの中にライターが入っていなかったら……。

 今の私があるのはヤツのおかげです。今ここで19の若造が家族以外の赤の他人の喪主をしている。不思議です。「すっ」と現れ、「すっ」と消えてゆきました。忘れられません。死ぬまで忘れませんというか、死んでも忘れません。さようなら。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 05.01.10

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思い14.見た目

 おばちゃんになると図々しくなってしまう、その理由はなぜかを聞く機会が少し前にありました。

 男女のカップルが街に出かけたとします。すると男の子よりも女の子の方が大衆の視線を集める場合が多いのだそうです。男の子が女の子を見るのは分かりますが、女の子も女の子を見ることが多いというのは面白いなあと思いました。

 そして、あるときを境にぱったりと視線を感じなくなるときがくるのだそうです。そして無意識のうちに図々しさが出てきてしまうのだそうです。他人によるチェックが無くなると他の人などお構いなしになってしまうのですね。

 その話を聞いて意識したおかげで最近気付きましたが、自分のする格好によって感じる視線、具体的には他の人と目と目が合う回数が変わるものですね。髪をワックスでいじったり、キャップを被ったり、ビビットカラーの服を取り入れたりすると違いが分かります。特に人ごみの中ではその違いがはっきりと感じられる程です。その人の目こそが今の自分にとって必要なのではと思うようになりました。

 私は大勢の人数で遊びに行くよりも数人、もしくは一人で遊びに行くのが好きなので、あまり全体の目を気にすることはしません。全体の目といえばサークルもあるんですけど、特によく見られようとは思っていませんから、やっぱり人の目を気にすることはしません。あんまりにも自然体でひょうひょうとしているので、周りからは何を考えているか分からないとよく言われます。

 仮に、私が自分のことをよく知らない人に会うとします。そしてしっかりした人、面白い人、格好いい人、優しい人などのいいイメージを相手に持たせたいとします。さあどうすればいいでしょうか。その答えは「見た目」と「話し方」の2つしか考えられないでしょう。といいますか、人を判断する基準が残念ながらそこにしかないと言った方がより正しいでしょうか。

 その2つは一朝一夕で身に付くような単純なものではありません。普段からの心構えと実戦があってレベルアップしていくものです。つまり周りの人とお互いに評価していくことが社交性に磨きをかけるためにはどうしても欠かせないわけです。視線を集めるようにするのもその一つの練習となってくれるでしょう。社会にでるとどうしても最低限の社交性が必要になってきます。ネアカであろうがネクラであろうが、付き合うものには対応していかないといけない場合も数多くあります。

 女の子と一緒に買い物に行きたくない、または行けない男の子がいます。その女の子の知り合いとお店で会うのが嫌だからというのがその理由です。女の子の買い物に付き合うのは、女の子のトレンディを知っている必要がありますし、買う気も無いのに「あれ面白いね!」「これカワイイね!」と言うのにやり取りする必要があったり、高等テクニックが必要な感じがするので面倒、ということもあるでしょうが。私は行けない所に行けたりするから好きなんですけどね。ピンクのアーチが入り口にあるお店にも堂々と入っていけるのが魅力。好奇心だけはたっぷりあります。

 釣りをちょっとしていたことがありますがコマセというものがあります。魚を集めるための撒き餌のことです。これで魚を自分の釣り竿周辺に集めて、釣り針の餌を食わせて吊り上げることになるのです。人と知り合うことはこれに近いものがあります。自分の強みを他の人に見てもらうことで注目させ、そしてさらに他の自分の良さを見せることでもっと仲良くなるのです。見た目は撒き餌に相当するのですが、これが意外に大事ですね。人は見た目だけじゃなくて中身が大事なんですけど、残念ながらそれは綺麗事なのです。

 例えば自分と同姓の友人を思い浮かべてみることにしましょう。そしてその人と付き合っているとして、その人と別れたいと思うか考えてみましょう。するとそれは見た目が大きかったでしょうか、それとも中身が大きかったでしょうか。また同様に、その人と付き合っていないとして、その人と付き合いたいと思うか考えてみましょう。こちらはどうだったでしょうか。結構面白い結果になると思います。

 私は見た目はあまり気にしません。ただし、あえて明言はしませんがこれだけは譲れないというポイントはやはりあります。周りには「見た目で判断されるのが…」という人もいるんです。ですが、私は男の子以上に女の子の方が「見た目で判断されるのが…」と思っていると感じていますし、実際女の子の方が見た目で判断されているとも思いますから、見た目をあまり気にしたくないというのもあるかもしれません。

 もうバレンタインデーのコーナーを設けたお店もあるので気になってふと思ったことを書いてみました。どうでもいいことを考えることが好きなのでそれ関係のネタはわりとあるんですが、恋愛相談をされることはまず無く、そして恋愛相談もすることがまず無いので自分の中に溜まっていくだけなんですよね。その捌け口があったらいいと思ったんです。

 ふと自分の考えを友人の一人に漏らしたら「…意外にプレイボーイだね」だそうで。そっか、キャラが違っていたのかな。自分のことを全部さらけ出すのは好きじゃありませんから、仲がいい人に対してとか、気が向いたときとか、そんな場合でしか話しません。

 まあ、ヒトという動物の一種として捉えると、自分の弱みを隠すのは当然と言えるかも知れません。とりあえず種の保存を尊重する方向で。

 05.01.27

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思い15.夢の役割

 私の部屋に最も近いコンビニは駐車スペースが小さく、普通車は1台しか止められません。ですが周囲に施設がいくらかあるために徒歩で来る人も多く、またバス停のすぐそばということもあり、立地としてはかなりいいところです。駐車場の問題があり、売り上げがそれほどいいとは感じませんが、そのコンビニが無くなるということはまず考えられないと思います。

 とある朝、ピピピピ…と目覚まし時計が鳴りました。その日は早起きしないといけない日だったのです。目を覚ますと「はあはあ」と息を荒げている自分。朝のぼぉっとした頭で何とか考えると、どうやら夢を見ていたようなのです。コンビニでいつも見ている頭の薄いおじさん、この方は店員なのですが、彼がレジで長いレシートのようなものを出して売り上げのチェックをしているようなのです。

 その映像が頭に浮かんでいるのですが、それだけで私は「そのコンビニの売り上げが芳しくない」と分かってしまうのです。その店員と私の考えがリンクしていて、その映像から店員の「ふぅ…」という気持ちが私にダイレクトに伝わってくるのです。そして私は「はあはあ」と息を荒げていたみたいです。

 さらに思ったのが「なぜあのコンビニなんかに特別な思い入れがあるんだろう」ということです。たかがコンビニ。なぜコンビニの売り上げを夢を見てまで心配しなければならなかったのか、自分の思考が信じられませんでした。

 以前どこかに書いたと思いますが、私はお風呂に入るのが好きです。用事の無い日には平気で1時間以上入っていたりします。また朝と夜の2回風呂に入ることもしばしばです。湯に浸かってぼぉっと考え事をするのが楽しみなのです。

 その夢を見た日も朝からお風呂に入っていました。そして先ほどの夢の意味、そのコンビニへの思いをじっくり考えてみる。ふむふむ。

 まずそのコンビニが無くなれば、時間的な制約が生まれます。学校に出かける途中にコンビニに寄ってから行くということがあります。もしそのコンビニが無かったら、今以上に遅刻が多くなっているでしょう。またコンビニに寄る煩わしさも大きなものになっているでしょう。

 そして、そのコンビニには思い出がありました。友人と待ち合わせをして本を立ち読みしたり、店員の女の子に声をかけようか本気で考えたり。他のコンビニといつものコンビニではやっぱり思い入れが違っているのです。

 そしてその日の朝、そのコンビニに少しでも貢献できるように、お菓子とデザートも買ってしまったのでした。へへっ。

 As a child, I could never understand why grown-ups took dreaming so calmly while they made such a fuss about movies. This still puzzles me.
 子どものころ、どうしても理解できなかったのが、どうして大人は映画のことではあれほど大騒ぎをするにもかかわらず、夢についてあんなにも落ち着いて受け止められるのかということである。この疑問は今でも私を悩ませている。(速読英単語 必修編より引用)

 高校の時に一生懸命勉強した単語帳の一節が頭の中にふと浮かびました。夢はきっと映画のようなものなのです。自分、あるいは自分の知り合いが主人公になること、登場人物の気持ちがダイレクトに伝わってくることなどを考えると、実は映画よりも価値あるものなのかもしれません。

 映画を見て考え方を変えたという人は結構いるでしょうが、夢を見て考え方を変えたという人の話は聞いたことがありません。せいぜい聞くのは「亡くなった人が枕元に…」ということぐらいのものです。

 「ジョハリの窓」という話があります。「自分が知っているかどうか」「他人が知っているかどうか」で自分について4通りの窓が考えられます。自分も他人も知っている部分は「開かれた窓」、自分は知り、他人が知らない部分は「秘密の窓」、自分が知らず、他人が知っている部分は「盲点の窓」、自分も他人も知らないのは「暗黒の窓」となります。私は夢が暗黒の窓に含まれるものを示していると考えます。

 夢が暗黒の窓に含まれていた自分を照らし出してくれるのですが、上記の通り夢を大事にする人は少ないのです。夢を重視しようとしないのは、「まるで夢のような…」という言い回しにもあるように、夢は信じるに値しないものとされているからです。夢と現実はしばしば対立します。

 自分がみた夢を人に話すことなど少ないでしょうし、自分で夢の意味を考えてみるというのは面倒といえば面倒でしょうし。夢に「本当の自分」の答えなどあるかどうかも分かりません。自分の責任で判断しなければならない夢よりも、他人の意見の方に流されるのは納得できます。

 私は、夢が「自分も他人も知らない自分」を伝えてくれる、「自分(あるいは自分の周囲)が主人公の映画(のようなもの)」だと思います。お風呂の時間に自分が見た夢のことをちょっぴり考えてみるくらいの価値はあると思うんですけどね。

 オヤスミなさい。いい夢を。

 05.02.02

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