秋田こまっち。

色覚異常

1.障害

 色覚異常の方から直にお話をうかがう機会がありました。「赤と緑のコントラストが一般の人よりもはっきりしない」という障害だそうです。このことで日常生活に特別な支障は無いそうですが、それにもかかわらず「色覚異常者」と言われたそうです。ただしネットで広告が入りすぎたサイトや、ハデハデな壁紙や素材を多用しているサイト、あるいは地図帳で緑の平野の上に赤で文字や記号を記載している場合、東京や大阪の地下鉄の路線図…、そのくらいだそうです。特に見にくいと感じるのは。でもそうだったら私もそう思いますよ、それらは見難いと。

 なぜその人は「色覚異常」といういかにも障害がありそうなネーミングで、「色覚異常者」という障害のある人々のカテゴリーに分類されることとなったのでしょう。私は以下に二つのことを提言します。

可能性1.障害についての無理解

 残念ながら私を含め、私達は障害についての理解があるとは言えません。なぜならその障害を実体験したことが無いからです。ある人が障害者と聞くと、「どんなに苦労してきたのだろう」とか「差別や偏見があったのだろう」、「私達は障害について考えないといけない」とか考えがちです。特にそのことが実感できるのはテレビのドラマです。聴覚異常の人、車椅子の人などは得てして主人公、ヒーローやヒロインになりがちです。なぜ車椅子の通行人、エキストラがいないのでしょうか?

 つまり障害を体験したことが無いために「身体の状態」「何ができるか」「どんな社会的不利益が生じるか」の三つを切り離して考えるべきなのに、そうできないのです。例えば「車椅子の人」を見聞きしたとします。車椅子=身体の状態、となりますが他の二つのこともついつい連想してしまいがちなのではないでしょうか。そしてこの考えが、障害を持つ人をさらに障害者たらしめてしまう原因となってしまうのではないでしょうか。

可能性2.「Mr.Normal」の存在

 「Mr.Normal」とは普通の人です。この普通というのが問題で、普通の人がいるから前述したような人が障害者となってしまうからです。これはどんな些細なことでもかまいません。障害でなくともかまいません。ちょっと人見知りをしてしまうとかのレベルでも。実際、全ての要素において水準以上という人などどこにもいないのに、「Mr.Normal」を私達が心の中に存在させてしまうからコンプレックスを抱いて悩んだり、障害者が障害者となってしまうのですね。しかし、心の中から「Mr.Normal」を消すのはたやすいことではありません。

 では私達はどうすればいいのでしょうか。私は社会全体がハードルを下げることで大部分は解決できるのではないか、と思います。いわゆるバリアフリーですね。もし街から段差がなくなったり、広いトイレができたり、広い通路ができたりすれば車椅子の人は今以上に「Mr.Normal」に近づいて生活できるでしょう。このバリアフリーは車椅子の人にだけ効果を発揮するのではありません。子供やお年寄り、あるいは酔っ払いにまでも。障害者に気を使い社会全体がハードルを下げれば皆が暮らしやすくなると思われます。この種はそこらじゅうに落ちています。例えばその方は、「ドアノブを今までの丸いタイプからレバー系のタイプに変えることで、手首を痛めている人、異常のある人が『Mr.Normal』に近づけるかもしれない」と言っていました。それだけでなく買い物帰りの両手がふさがったおばちゃんにも優しい社会が出来上がるでしょうし。こんな些細なことからどんどん改善されて欲しいです。ドアノブは盲点でした。

 でも一番大事なのは「心のバリアフリー」です。それは間違いないです。

2.色覚異常の検査のあり方

 皆さんも検査は経験したことがあるのではないでしょうか?私も小学生の時にしましたが何年生なのかはちょっと忘れてしまいました。ですがなんだか異様な雰囲気だったので今でも少し覚えています。私の場合は学校の図書室で行われたと思います。そして丸がたくさん描かれている中に数字が浮きあがっているような絵を見せられました。検査の結果については覚えていません。覚えていないということは正常だったのでしょうか?そうであると信じたいですけど…。

  ←こんな感じの絵。手書きなのでヤヴァイですけど、2が見えますか?

 この方はこのシステムに大きな問題がある、と言っていました。話の内容を大まかに分けると以下の三つのようになります。

問題1.検査の公開

 検査そのものが公開されたものであったということです。検査している姿、検査の結果など。この方は大勢の生徒、教師が見ている前で「あなたは色弱です」と発表されたそうです。これってどうなのでしょうか、ひどくありませんか。検査結果の公開はプライバシーの侵害に当たるはずです。このことが話題になり対策が採られたのが1990年代に入ってからだそうです。私はその期間小学校に行っていましたよ…。つい最近の話なんですね。

問題2.早期告知

 先ほども述べたようにこの方は検査後にすぐ「あなたは色弱です」と発表させられたそうです。そしてさらに進路指導でこう言われたそうです。「色の変化が見分けられないから医師や薬剤師、工学研究者、印刷・出版関係、パイロットや電車を運転する人などになるべきではない」と。たかが「赤と緑のコントラストがはっきりしない」だけでこれはきついですよね。10代のうちに将来の仕事を制限され、あなたはまっとうに仕事ができないと言われたわけですからね。

 この方は寛大なのか、色のコントラストが分からないなら仕事の向き、不向きがあるのはしょうがないから、このことはまだ許せると言っていました。ですが、色のコントラストがはっきりしないと大勢の前で言われたのに、相変わらず「黒板ならぬ緑板に、重要なところは赤チョークで書く教師の存在」は納得できなかったそうです。「あなたは色弱です」と言われたにもかかわらず、社会の対策が全くなされていない…。「色覚異常」を「異常」としない配慮にあふれた社会の構築は全くなされていない…。そして「ならばどうすればいいんですか」の問いに答えてくれる者は誰もいなかった…。眼科医は「〜の仕事にはつくな」と言うだけで、「〜を改善しよう」と言う医者を見たことが無い…、と。こんなことを言っていました。伝えると同時にこれから何をすべきかの指針を教えてくれないと、単なる「未来の否定」になってしまうのではないでしょうか。「緑板に赤チョーク」という話はすごくリアリティがあり、それだけ心にぐっと残った言葉です。

 「告知とは何か」この方が言いたかったのはそのことだと思います。何の意味があるのでしょうか。私は単に伝えることではなく、言わないよりも言った方が有意義な時間を過ごせるようにすることが目的なのではないかと感じました。「ブラックジャックによろしく」というマンガにもあるように、医療倫理問題にも絡んでくるところです。余談ですが、あのガンの話は壮絶でした…。

問題3.検査内容自体の非合理

 この方は、緑系の丸の中に赤系の丸があって文字が浮かんでくるような抽象的な検査は好ましくないとおっしゃっていました。非現実的だと。私はどうでもいいような感じがします。別にあの検査のままでもかまいませんし、もうちょっと具体的な絵(生肉と焼けた肉の絵、花の絵など)でもかまいません。でも「色覚異常」と言われた人の気持ちになると、あんな変な検査でこれだけ人生において制限されることになるならば、腹が立ってしょうがないかもしれません。

 あと非科学的だとも。「色覚異常」が原因で事故を起こした車の話など聞いたことが無いと。う〜ん、難しいですね。事故が色覚異常が原因で起こったのか、他の原因でおこったのかは誰にも分からないとは思いますからね。それよりも不注意や飲酒などが他の大きな要因に隠れてしまっていて、表に出てこないのかもしれません。これが感情論なのかどうかよく分からなかったので、あんまりこの項目は納得できませんでした。

3.差別

 この方はよく「これ何色に見える?」と聞かれたそうです。最初のうちは「赤と緑のコントラストが普通の人よりはっきりしないだけ、色ははっきり見える」と丁寧に答えたり、他にも色々と答えていたそうですが、最後には面倒になってきてこう答えるようになっていたそうです。「見えるよ、色盲じゃなくて色弱だから」と。

 ここにも大きな問題があったことに気づいたそうです。「自分を普通の人と同じ枠組みに入れるために、さらに色が区別できない人と自分を区別してしまっていた。ここに心の奥底にある差別の気持ちがあったのだ」と。私は○○だけどあの人よりはマシ、という考えですね。

 また、この方は高校の時に作文でこんな論を展開していたそうです。要約した内容をここに書きます。人のことは言えませんが高校生らしいベタな…、堅実な文章ですね。

・私は色弱と言われた。
・生活に支障は無いが、将来の仕事は限定されてしまっている。
・色弱でさえこれほど仕事が限定される。他の障害を持つ方はもっと大変だろう。
・私達は障害について考えていかなければならない。

 この作文を読みなおして、また同じようなことに気が付いたそうです。「自分のことは分かってもらえるだろうという考えを持っていながら、他者のことは分からないしどんな苦労があったのだろうと想定してしまっている」ということに。自分を「Mr.Normal」と同質化させるための差異化、実はこの論理こそ差別なのではないでしょうか。自分を救うためという考えのもと、他者を気づかぬうちに差別することになってしまっていた…。恐ろしいことながら、悲しいことでもありますね。本人が悪いことをした、と気づいていないからさらに大きな問題です。差別とは相手と自分が「違う」から生じるのではなく、相手と自分を「違う人」と感じてしまうから生じるのです。

4.おわりに

 この方に関連したうろ覚えの話はこれでおしまいです。この話を聞いた私達は何を思い、どう行動するべきなのでしょう。ちょっと考えさせられるものがありますよね。私が思ったことをもう少しだけ。

 まずバリアフリーといいますか、ユニバーサルデザインといいますか、これを今の社会にどんどんと浸透させていくことです。このことが障害のある人のみならず、一般の人にもいい効果をもたらすということは前述したとおりです。

 また他者を尊重することも大事ですね。「相対評価の下で必ず生じてしまう落ちこぼれ」、これはしょうがないことなのです。「セ・リーグとパ・リーグには毎年必ず生じる最下位」、これもしょうがないことなのです。ですが前者と後者は次元が違うこと、前者の方が大きな問題だと感じませんか?これは前者は尊重されにくく、後者は支えているファンが健闘を称えている、つまり尊重を忘れないからだと思います。ちょっと違いますが、差別についても同じことが言えると思います。尊重すれば、差別はほとんどといっていいほど起こらないのではないでしょうか。

 人は皆違う。この当然のことを私達はあらためて認識すべきですね。「Mr.Normal」などいません。違いがあるから人との交流がおもしろいと思いますけどね。違うのを当然と思えば、違っているからといって特別何も思わないはず。まして差別など。

 ちなみに色覚異常は男性に多くみられ、約5%の人々にもなるそうです。単純に考えます。日本の人口を1億2000万人として…、その半分6000万人を男として…、その5%は300万人ですね…。あ、秋田県の人口の約3倍!かなりの人数ですね。これだけの人が同じようなことを思うようになるのは避けたいものです。まるでネットの大海原に向かって叫んでいるようなものですが、言わないよりはマシなので長々と主張してみました。

 04.07.03

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